東大寺山古墳と和爾下神社
東大寺山古墳と和爾下神社
天理市の北部、櫟本町から和爾町は古代豪族ワニ氏の本拠地があった 地域です。
日本書紀や古事記には、この地域をワニ坂と呼び、大和朝廷に使えたワニ氏の祖先が武力に優れた集団であったことがうかがえます。
このあたり一帯は、中世には東大寺の所領であったことから「東大寺山」と呼ばれています。この丘陵の西端に所在するのが東大寺山古墳で全長130mの北向きの前方後円墳。
昭和36年(1961)に地元民が後円部で作業をしていたところ、多数の刀剣類や石製品が出土しました。
天理大学付属天理参考館が発掘調査を行いました。
調査の結果、後円部墳頂の埋葬施設は、木棺全体を粘土で覆って造った粘土槨であることがわかりました。そしてこの両側から鉄剣、鉄刀、鉄 槍、矢束など多様な副葬品が見つかりました。
東大寺山古墳と和爾下神社
後漢時代「中平」年号をもつ国内最古の刀
なかでも、「中平(ちゅうへい)」銘を持つ鉄刀には、金象嵌(きんぞう がん)による24文字が刻まれて、うち20文字が解読されています。
「中平」は後漢の年号で、西暦187年~190年に相当し刀身部の特長から中国で制作された鉄刀であることがわかっています。
日本列島に運ばれたのちに、独特な形態の環頭部(かんとうぶ)が取り付けられたもので、作られてからおよそ150年以上を経てこの古墳に副葬されたと考えられます。
確実な紀年銘をもつ国内最古の貴重な資料です。
倭国では戦乱が収束に向かい、女王卑弥呼が共立された時代です。
中国皇帝が卑弥呼に贈った? 
はたまた239年に魏の皇帝が下徴した五尺刀では?
様々な想像をかきたてられる大刀なのです。
櫟本の鎮守で前方後円墳の上に建つ神社
「延喜式」にみえる古い神社です。
もとは「和爾部」と「櫟井臣」の祖神とされる孝昭天皇の皇子・天足彦国 押人命(あまたちしひこくにのおしひと)と日本(やまと)帯彦国押人命 が祀られていたそうですが、現在は本社大己貴命(一名大国主命)、素盞鳴 命(すさのおのみこと)、稲田姫命が祀られています。
古墳が治道山と呼ばれていたところから、治道社(春道社)や牛頭天王社、さらに西隣に建てられた柿本寺との関係で柿本上宮とも呼ばれていました。
しかし、明治初年に延喜式内の和爾下神社に当るとの考証から、和爾下神社と定められ、今日に至っています。
【アクセス】
・JR万葉まほろば線「櫟本」下車徒歩約20分
・奈良交通バス「櫟本」バス停徒歩5分
・櫟本高塚公園に無料駐車場、休憩所、トイレあり

見どころ

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