纒向遺跡、ここが邪馬台国の王都だ
纒向遺跡、ここが邪馬台国の王都だ
3世紀初頭に出現した日本最初の都市
JR巻向駅のホームからすぐ西に、卑弥呼の時代の宮殿跡とみられる遺跡があり、「史跡 纒向遺跡」の石柱が建っています。ここが邪馬台国の都があったとみられる纒向遺跡の中心地です。
纒向遺跡は南北1.5㎞、東西2㎞。藤原京や平城京に匹敵する大きさです。この時期、これだけの規模の大集落は列島には皆無です。
それも、弥生時代に過疎地であったところに、3世紀初めに突然、東西に中心軸をもつ宮殿などの建設が始まるのです。最盛期には、一般集落にみられる竪穴式住居が築かれず、高床式や平地式の建物や水路や道路が建設されました。当時の官庁街でしょう。
全国各地から人やモノが集められました。その範囲は九州から関東に至ります。
注目されるのは、纒向遺跡から発掘される土木用具として使用された鋤(すき)と、農耕具としての鍬(くわ)の木製品の比率です。それは95対5%の比率で、圧倒的に鋤が多いのです。
纒向遺跡は、生活基盤が農耕に依存したものではなく、農業をしない都市遺跡だったことを物語ります
纒向遺跡、ここが邪馬台国の王都だ
卑弥呼が祈りに使ったモモの種
宮都の中は水路が張り巡らされていました。「水の都」と言われる所以です。
奈良盆地東南部という東海地域と西日本各地を結ぶ交通の要所に位置し、ここは一大物流拠点「大市」でもあったのです。遠く大陸から運ばれてきた鉄素材や文物が、ここから日本全国に流通していったのです。韓式系土器のほかベニバナやバジルの花粉、木製輪鐙など朝鮮半島や大陸系の文物が出土し、高度な技術者集団がいました。
また大量のモモの種が見つかり、ここでは祈りを捧げる人がいたのです。このモモの種は、最新の科学調査(C14年代法)によると、西暦210年~240年代のものと発表されています。
『魏志』倭人伝に書かれた、女王卑弥呼が活躍した時代と、まさに一致します。
いざ、日本の源流を訪ねる旅へ!
纒向遺跡の発掘調査は半世紀、200次を超えます。
平成24年(2012)には「纒向学研究センター」が桜井市によって設立されました。翌年に創刊された「纒向学研究第1号」には、寺澤薫所長が「序」で次のように記しています。
「研究センターの三つの柱は、①纒向遺跡の解明と、「日本国家」、「日本文化」の源像の追求、②人間的視野と学際的総合研究としての「纒向学」の確立、③21世紀の新たな「学」のありようと領域の模索、にあると考えている。」
日本の国は、まさにここから始まりました。纒向遺跡を訪ねる旅は、日本の歴史の源流・われわれのアイデンティティを探し求める旅なのです。
【アクセス】
奈良県桜井市太田78
JR万葉まほろば線「巻向」駅、徒歩5分で建物跡
http://www.makimukugaku.jp/

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