石上神宮と国宝「七支刀」
石上神宮と国宝「七支刀」
大和王権の武器庫、物部氏の拠点
石上神宮は、天理市布留町にあり、杉の木立に囲まれた境内は、神さびた雰囲気にみちています。
現在の社殿は大正2年に造られ、本来は大神神社同様、社殿のない神社でした。
大和朝廷の武器庫だったといわれ、日本書紀には、垂仁天皇の皇子・五十瓊敷命(いにしきのみこと)の剣一千口納入ほかにも石上神宮と武器の関わりを示す記事があります。
武器類は天神倉(あめのほくら)に納められていたといい、いまも禁足地の中に神倉が建っています。高床式の校倉造りは江戸時代のものだが、古代にはこうした倉庫がずらりと並び立っていたのでしょう。
延暦24年(805)に、15万7000人を動員して神宮の兵器をごっそり平安の新京に運搬したといわれ、
その直後に天皇が重病をわずらったことなどから『たたり』とされ、翌年返還と伝えています。
それにしても15万人以上の人々が運んだ武器とは、いったいどれほどの量であったのでしょう。
4世紀に百済王から贈られた七支刀
石上神宮には、名高い七支刀(しちしとう=国宝)が伝わっています。長さ74.8cm。名前は刀だが、左右に三本ずつ枝刀をもつ奇妙な形の鉄剣です。朝鮮の百済王から贈られた刀で、大和朝廷の武器庫を今に物語る象徴的存在でもあります。
中国・東晋の年号の泰和4年(369)に制作されたといわれ、表と裏に金象眼で60数文字の銘文が刻まれています。
【表】
泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練銕七支刀 出辟百兵冝供供侯王 □□□□作
〔訳〕「泰和四年(369)十一月十六日の丙午正陽(吉祥句)に百練の鉄(鍛え上げた鉄)で七支刀を造る。出て百兵を辟(さけ)、宜しく侯王に供供すべし」。末尾は作者か制作地とされる。
【裏】
先世以来未有此刀 百済王世子奇生聖音 故為倭王旨造 伝示□世
〔訳〕「先世以来、未だこのような刀有らず。百済王と太子は生を御恩に依っている故に、倭王の上旨によって造る。永くこの世に伝わるであろう」
【アクセス】
天理市布留町384
JR・近鉄天理駅、東へ徒歩25分
http://www.isonokami.jp/

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