邪馬台国

大陸から職人や技術者

写真/桜井市教育委員会
日本最古のベニバナ染め工房
第61次調査で3世紀前半のV字溝の埋土からベニバナの花粉が見つかった。
これまでの発見例では、奈良県斑鳩町の「藤ノ木古墳」(6世紀後半築造の円墳)が最も古いといわれていた。それより約300年も前、すでに纒向ではベニバナ染めが行われていた。
ベニバナの用途には染料や漢方薬・紅などがあるが、纒向遺跡のものはその花粉量の多さから、溝に流された染織用の廃液に含まれていたと考えられる。
ベニバナはもともと西アジアからアフリカ原産で、日本には自生はしていない。
大陸から染めもの職人が招かれ、工房を開いてその技術を倭人に伝えた。
纒向遺跡の首長層が大陸系の高度な技術者集団を抱えていたことがうかがえる。

バジルの花粉も発見
また、日本で自生しないバジルの花粉も見つかった。弥生時代に中国から持ち込まれたとみられ、分析した奈良教育大学の金原正明教授(環境考古学)金原教授は「遺跡が大陸との交流の拠点だった事を裏付ける発見」としている。
花粉は、遺跡の中心にある3世紀中ごろの溝の土から検出された。植物の特定は進んでいなかったが、金原教授らが現生のバジル花粉と比較し、判明した。バジルはインドや東南アジアなどが原産。見つかった花粉は、国内最古のバジルの存在を裏付けるという。

絹の巾着の小袋

写真/桜井市教育委員会 
纒向遺跡では数少ない絹製品で、幅約4.8m、深さ1.7mの溝から出土した。
小袋の大きさは3.4cm、厚みは2.4cm。
巾着はヤママユから採れた国産の絹を平織りにした布で包んだあと、口の部分は糸を束ねてわずかにねじっているだけ。ヒモで結んでいる。近年の調査では巾着は漆によって固められ、なかには空洞部分があることがわかった。
レントゲン撮影が行われたが、岩石や金属の反応はなかった。
金印の袋にしては小さすぎる。3世紀後半のものとみられている。

韓式系の土器

写真/桜井市教育委員会
導水施設へと水を供給する大溝の下部には布留0式の古い頃(3世紀後半)のV字溝が存在している。韓式系土器は第90次調査で、この溝から出土した。導水施設より古い段階の祭祀に使用されたものと考えられる。
韓式系土器には孔子目のタタキを持つ者とミガキによって光沢をもつものの2種類がありますが、ミガキを施すものは楽浪系の土器ではないかと考えられている。

鏃(やじり)

倭製銅鏃と木製鏃(桜井市教育委員会)
また、当時の高度な土木事業には、朝鮮半島系の人々が深くかかわっていたようだ。
導水施設を含む祭場整備、それに儀礼には欠かせない存在だったのかもしれない。
韓式系の土器とともに朝鮮半島の銅鏃に似てつくられた木製の鏃(やじり)が出土している。

最古の乗馬の木製輪鐙(あぶみ)

写真/桜井市教育委員会 
鐙とは乗馬をする際に使われる馬具の一種で、馬に乗るときに足を踏み掛けるために使用される。箸墓古墳の後円部の南東部分で古墳を取り巻く周濠の上層部から出土した。
アカガシ亜属という非常に固い木を使っており、最大幅10.2cm、長さ15.8cm。残念ながら下半分は欠損している。
柄の部分には馬の背につるす為の革紐を通す長方形の穴があけられている。この穴には使用されたことによる摩擦の痕跡が確認できるところから、この鐙は実際に使われたものであることがわかる。
輪鐙は、布留1式期(4世紀前半)のものと考えられている。国内で確認されている馬具の中では飛び抜けて古いものだ。
当時日本には馬が数多くいたとは考えられていないが、この輪鐙の発見によって、ごく一部の階層の間では乗馬の習俗もあったことがわかる、貴重な発見である。