邪馬台国

姿を現す太陽と水の宮殿

監修/黒田龍二 NHKスペシャル「”邪馬台国”を掘る」ⓒNHK/タニスタ

伊勢神宮・出雲大社の原型
2009年11月に発見されたのは、3世紀前半から中頃にかけての最大級の建物跡。
神戸大学大学院の黒田龍二教授(日本建築史)の監修にもとづいて、NHKと制作会社タニスタが再現したコンピュータ・グラフィックの作品をお借りした。
一番大きな建物は、柱の並び方から、推定で南北19.2m、東西12.4m、高さは10~12mで、何と3階立てのビルに相当する。
柱と柱の間隔は東西約3m、南北約4.8m。床面積は約240㎡で、3世紀前半のもの。
つまり魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の時代だ。

この大型建物跡の周辺からは生活をにおわせる土器はほとんど出てこない。
手前の二棟の建物は衛兵の詰め所、宝物庫、武器庫などと推定されている。中心部の建物は、同じ方向を向き、それぞれの中心線は東西の同一線上に並んでいる。
大型建物の構造は、数少ない類例として出雲大社本殿に近く、すぐ東側の建物はその構造上、伊勢神宮本殿の原型に近いといわれている。

卑弥呼の祈りの宮殿か
遺跡は東西に走るいくつかの旧河川で分断され、大型建物は太田区と呼ばれる微香高地上に立地している。
遺跡内には数本の橋が掛かっている。
また、大型建物の周辺では大和川につながる高度な土木技術で護岸を施した大溝(運河)や祭祀場も見つかり、清水を宮殿の周辺に引き込んでいた。井戸の後も発見されている。
もともと竜王山や穴師山・三輪山の伏流水で、水の豊かな場所であった。いまでは考えられないほど、豊かな「水の都」だった。
宮殿がある中心区域を水で囲み、巻向川からの水をたたえた「聖なる場所」であった。
大部屋といくつかの小部屋に分かれ、ごく一部の接見が許された者のみが入室することができた。
建物の中心線を、東に延長すると穴師山の方向に至り、山から昇った太陽が宮殿を照らす。
卑弥呼はここで太陽の光を受けて、魏の皇帝から贈られた鏡に向かって祭祀を行った。