邪馬台国

鉄と鏡を使って勢力拡大

三角縁神獣鏡の不思議
卑弥呼が魏に朝貢した際に、明帝から百枚の鏡を贈られる。 その鏡は三角縁神獣鏡といわれる。「景初三年」「正始元年」など年号の入った三角縁神獣鏡がヤマトを中心に大量に見つかっている。
この鏡は中国国内で1枚も見つかっていないので、日本でつくられたのではないか、という説も登場したが、最近の研究では、長方形の鈕孔(ひもを通す穴)や外周突線、特徴的な唐草文などから、三角縁神獣鏡は魏の皇帝が卑弥呼のために、特別に魏の工人につくらせた鏡だとする研究成果が報告されている。
魏志によると、皇帝は「汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむ可し」とわざわざその使い道まで指示している。
卑弥呼亡き後も、ヤマトから全国へと三角縁神獣鏡の配布を広げていく。これを卑弥呼から受けた地域の首長たちもまた、各地域で自らを魏王朝との結びつきを誇示するようになる。
すでに全国で500枚を超える三角縁神獣鏡が発見されているが、前方後円墳の築造とともに、ヤマト王権の政治統一に大きな役割を果たすことになる。(2017年10月29日、桜井市桜井市纒向学研究センターの東京フォーラムでの福永伸哉大阪大学大学院教授の講演資料より)

鉄を掌握、北九州を制圧
鉄の普及は、1世紀代までは「ツクシ政権」といわれるほど力をもっていた北部九州が最も進んでいた。当時の鉄の産出地域である朝鮮半島の楽浪郡が、中国の後漢王朝の庇護下にあった。
ところが184年の「黄巾の乱」をはじめ、相次ぐ一揆等で後漢王朝が混乱すると、「ツクシ政権」も同じように弱体化する。
そしてついに、邪馬台国が鉄の供給ルートを掌握するようになり、北九州地域を圧倒していく。2世紀末には、畿内は力を増し、倭国の鉄に流通に大きな影響力を持つようになる。

纒向でも鍛冶工房跡
纒向でも鉄素材を外部から仕入れ、製品を加工する工程の「小鍛冶」が行われていた。鞴羽口や鉄滓・砥石などが分散して出土している。中でも鞴羽口は他地域との技術交流が認められ、邪馬台国にも北九州系の技術が伝わっていることがわかる。