邪馬台国

黒塚古墳で大量の鏡


木管内の両サイドには大量の三角縁神獣鏡が置かれていた
魏の明帝から贈られた三角縁神獣鏡
平成10年、天理市柳本町の前方後円墳「黒塚古墳」(全長130m)から、大量の三角縁神獣鏡が出土した。奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査した。
後円部の竪穴式石室の内外から33面もの三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡1面が見つかった。同時に刀、剣、ヤリなど計170点を超える鉄鏃などの武器や工具類が発見されたが、なんといっても注目されるのは、鏡の多さと時代背景を映し出す鏡の種類なのである。
黒塚古墳の特徴の1つは、画文帯神獣鏡の1面のみが棺内の頭の部分に置かれ、三角縁神獣鏡は鏡面を内側に東壁側に15面、西壁側に17面、北に2面と棺の北半分を「コ」の字型に取り囲むように並べられていた。後漢鏡の画文帯神獣鏡の方が格上と見られていたのか。

邪馬台国時代の鏡は奈良に集中
1つの古墳から30面以上の鏡を出土する例は、次の8例である。
奈良県桜井市茶臼山古墳      81面
福岡県前原市平原古墳      39面
京都府山城町椿井大塚山古墳   37面
奈良県河合町三昧田宝塚古墳   36面
福岡県前原市三雲南小路1号甕棺  35面
奈良県広陵町新山古墳      34面
奈良県天理市黒塚古墳      34面
福岡県春日町須玖岡本甕棺    32面

やはり、北九州と畿内に集中するが、たとえば福岡の平原古墳は四神鏡が32面、他は大型の内行花文鏡で、甕棺から見つかった鏡はいずれも前漢時代の舶載鏡である。
卑弥呼が登場した時代の鏡よりもずっと古い時代のもので、黒塚や椿井大塚古墳は3世紀後半にかけて造営された、まさに邪馬台国からヤマト王権への移行の時代といえる。
つまり、魏の明帝から卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」にあたり、邪馬台国畿内説の有力な根拠と考えられている。

素材の産地や職人集団も
また、黒塚古墳で見つかった鏡のうち「銅出徐州、師出洛陽」といった文字が刻まれたものが見つかっている。中国でつくられた職人集団の推定もされている。
また第7号鏡と呼ばれている鏡には獣面や飛鳥、魚に混じって象と駱駝(ラクダ)が描かれている。この時代に象や駱駝を見た日本人がいたのだろうか?

神仙思想をデザイン、全国へ
三角縁神獣鏡は、同型鏡が多いのも特徴で、初めて卑弥呼が行った朝貢の翌年に、中国から卑弥呼に下賜された鏡が百枚だとしても、同型鏡が多いと言うことは、この鏡の需要が高かったためだ。
舶載鏡(中国から運ばれた鏡)は370枚以上が宮崎県から東は群馬県まで分布しているが、そのうち多く出土した県を上げると奈良県80面、京都府56面、兵庫県39面、福岡県28面、大阪府22面、岡山県20面となり、奈良を中心に関西地方が圧倒的に多い。
なぜ三角縁神獣鏡が日本でもてはやされたのか?
それは当時、不老長寿への願いや「神仙思想」がヤマト王権を中心とする日本国家を統治する首長達の秩序維持の基本思想を動かしたに違いない。画文帯神獣鏡とともに、その神仙思想をデザインしたものであり、当時の日本の指導者にもてはやされたのであろう。
(1999年橿原考古学研究所の「黒塚古墳調査概報」より一部抜粋)


空からみた黒塚古墳(写真/天理市教育委員会)