邪馬台国

発見!日本最初の首都建設


建物跡の現地説明会には全国から1万人もの考古学ファンが押しかけた。(2009年11月14日)

突然!平城京に匹敵する広さ
奈良盆地の東南部に広がる纒向遺跡は、卑弥呼の都だったとして、注目されている。 一般的に遺跡は、小さな弥生集落から徐々に拡大していくが、纒向だけは異例なのだ。
2世紀末から3世紀の初頭にかけて、東西約2キロ、南北約1.5キロに及ぶような巨大集落が突然、それも都市計画をもって誕生した。
この広さは、後の藤原京や平城京に匹敵するぐらいの規模になる。
わが国では勿論初めてのことである。つまり、ある時期に突然、都市計画に基づいて人工的につくられた「首都」だった。

農業ではなく土木用具が出土
遺跡の本格的な調査が始まったのは1971年で、半世紀にわたって発掘と研究が続けられている。
中でも注目されるのは鋤(すき)と鍬(くわ)の出土の割合だ。古代では鍬は農耕具として、鋤は土木工事用の道具として使用されてきたが、纒向遺跡では95対5と、鋤が圧倒的に多い。つまりここは農業をするためにつくられた場所ではないということを証明している。
弥生前期から古墳前期にかけてつくられた、各地の遺跡とは全く逆の状況で、これだけ極端な例は纒向だけである。これらの土木用具は運河や古墳の築造に使われたのは間違いない。このことからも纒向遺跡の特殊性がわかる。

各地から人とモノが集められた
これだけの巨大都市を建設するには、多くの人やモノが動員された。それを証明するのは出土した「搬入土器」だ。
調査では、出土した土器の実に15%は他地域から持ち込まれたもので、それも、西は九州から、東は南関東にまで広がっている。さらに海外の韓式土器も含まれている。
最も多いのは東海系のもので50%を占める。これに山陰、吉備、河内、近江、北陸、播磨、阿波が続く。
つまり、畿内の地元よりも東海、吉備、山陰から多くの人とモノが動員された訳で、これは初期ヤマト政権と各地の関わりの濃淡を物語るともいえる。


纒向遺跡全図(写真/桜井市教育委員会)


全国各地からの搬入土器(前列中央の3点は大和の甕で、右側から4点が東海、続いて北陸、近江、河内、阿波、吉備が2点、そして左側手前が山陰の土器(写真/桜井市教育委員会)