邪馬台国

卑弥呼の食卓とモモの種


大量に出土したモモの種(写真/桜井市教育委員会)


銅鐸から銅鏡へ
1979年の調査で、銅鐸の飾耳が見つかった。2世紀末から3世紀前半にかけては、三輪山周辺では神祭りのシンボルであった銅鐸が、破壊されるという事態が次々と起こったようだ。
銅鐸は日本独自で発達した弥生の祭祀具だが、なぜ壊されて埋められたのか?
それは、弥生時代から古墳時代への幕開けの象徴として考えられている。
卑弥呼が登場する直前の2世紀後半。東アジア一帯で天候異変が続き、各地で暴動が起き、中国では「黄巾の乱」(184年)で後漢が大混乱となる。「三国時代」に移る一因となった。
ついに人々は「弥生の神」を捨て、新しい神を祭るようになる。
そのシンボルとなったのは女王卑弥呼と「鏡」であった。
西暦239年に魏に使者を送り、「親魏倭王」の称号と金印それに銅鏡100枚を贈られた。

供えた神饌「モモの果実」
第168次調査では、この時代の最大の建物跡と注目を浴びた居館の柱跡のすぐ南の土抗から驚くべきものが発見された。
2769個のモモの種や魚、動物の骨などが見つかった。 特に、モモだ。これだけの大量のモモの種は一体何に使われたのだろうか?
女王として30の国々をまとめ、君臨した卑弥呼は、「鬼道に事(つか)え よく衆を惑わす」と書かれ、決して人前には姿を見せなかった。千人の女官が仕えたとされるが、唯一面会を許されたのは男弟だけだった。
中国の仙神思想では、モモは「仙薬」(仙人になる薬)として扱われ、不老長寿を叶えるものとして大切にされてきた。神棚には多くのモモが供えられたのであろう。

何とグルメ!卑弥呼の食卓
この土坑からは、そのほかにも当時の食生活を彷彿とさせるものが見つかっている。
2013年5月31日付けの桜井市纒向学研究センターの報告書では、下記の通りである。
動物類は、イワシ類、タイ科(マダイ、へダイ)、アジ科、サバ科、淡水魚の他にツチガエル、ニホンアカガエル、カモ科、ニホンジカ、イノシシ属となっている。
植物は、栽培されていたとみられるモモ、スモモ、イネ、ヒエ、アワ、アサ、ササゲ、エゴマ、ウリ、ヒョウタンなどが見つかっている。
大阪府立弥生文化博物館編集の「卑弥呼の食卓」(平成11年)では、ある日の卑弥呼の食事を再現したとして、次のようなメニューを紹介している。

ある日の卑弥呼の食卓(写真/大阪府立弥生文化博物館)
①玄米の炊き込みご飯(ゼンマイ、タケノコ)
②タイの塩焼き
③ミョウガ
④サトイモ、タケノコ、ブタ肉の合せ煮
⑤ハマグリとイイダコのワカメ汁、木の芽あえ
⑥アワビの焼き物
⑦ショウサイフグの一夜干し
⑧炒りエゴマ風味キビモチ
⑨アワ団子のシソの実あえ
⑩ゆでワラビ