邪馬台国

卑弥呼は箸墓古墳に眠る


卑弥呼の墓と伝えられる箸墓古墳(写真/桜井市教育委員会)
日本最初の巨大前方後円墳
古墳時代初頭(3世紀前半)に入って、纒向遺跡では石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノ山などの前方後円墳が造られている。いずれも前方部は小さく、ホタテ貝のように短い。「纒向型前方後円墳」と呼ばれる。これらの古墳が造られた後に、大和を中心としてその企画や祭式が全国に拡散していった。
箸墓以前の最大級墳墓である纏向石塚古墳が長さ90mであるのに対して、箸墓古墳は280m。長さは箸墓古墳の3分の1、面積では9分の1となるが、体積で比較すると実に30分の1となる。
ある調査では、動員された延べ労働力を比較すると、纏向石塚古墳が4万5000人(盛り土は1万㎥)に対して箸墓古墳は135万人(30万㎥)と桁違いの大きさとなる。
つまり「それまでの30倍の権力の登場」となり、以降、前方後円墳が南は鹿児島から、北は福島県まで普遍的に普及する。
わが国最初の本格王権がこの地に誕生したことを物語るとすれば、箸墓は「日本最初の大王の墓」ということになる。

昼は人がつくり、夜は神がつくった
日本書紀に記された「箸墓」の被葬者は、孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)である。
箸墓古墳に関わる伝説としては、日本書紀の崇神天皇十年九月条に記されたものがよく知られている。倭迹迹日百襲姫命の神婚の話のほかに、築造にあたっては「昼間は人がつくり、夜は神がつくった」、さらに「15kmも離れた大坂山(二上山)から手渡しで運んだ」と書かれている。
古代の人々が箸墓古墳に対して神秘的で特別な想いをもっていたことが分かる。
膨大な日本書紀の記述の中でも、お墓について書かれているのは箸墓だけなのである。

箸墓の築造年代、記述とピッタリ符号
箸墓古墳は、いつ頃造られたのか? 科学は、この神秘のベールに包まれた課題に挑む。
平成21年5月、国立歴史民俗博物館の研究グループが「放射性炭素14年代測定法」で解き明かした。
放射性同位体であるC14が5730年で半減するという原理を応用して測定する。
箸墓古墳出土の「布留0式」と呼ばれる土器に付着していた炭化物を分析した結果、箸墓古墳の築造は西暦240年~260年と出た。
卑弥呼が亡くなったとされる248年頃とピッタリ符合する。
また、魏志倭人伝は「卑弥呼以って死す。大いに冢(ちょう)を作ること径百余歩、葬に殉ずる者奴婢百余人なり」と記している。
箸墓古墳の後円部の直径は約150m。これも計ったように一致する。
卑弥呼は箸墓に眠る。