邪馬台国

全国一古墳が集中する天理

特殊器台の面影を残す有段口縁の埴輪(写真・天理市教育委員会)
台与の墓か「衾田陵」
天理市には大小あわせて1700以上もの古墳が集中する。これは、全国一の数だ。
特に山の辺の道の周辺に集中している。
萱生町一帯に点在する西殿塚、東殿塚、中山大塚、下池山などの古墳群は「大和古墳群」と呼ばれている。纒向から少し後の時期に誕生した古墳群だ。
なかでも、ひときわ目立つのは「衾田(ふすまだ)陵」ともいわれる西殿塚古墳で、その規模は全長230m。第26代継体天皇の皇后で、手白香皇女(たしらかひめみこ)の陵墓に指定されている。
ところが、築造年代とはあわない。つまり、手白香皇女が生きたのは6世紀だが、西殿塚古墳が築造されたのは3世紀後半。卑弥呼が箸墓古墳に葬られたすぐ後の時代となる。特殊器台型埴輪など箸墓古墳と同型の出土品がみられる。
そこで、卑弥呼の宗女として跡を継いだ「台与(とよ)」の墓との指摘がある。台与は、卑弥呼が亡くなった後、「男王をたてたが国中服さず」として、混乱が続いた後に就任した。
266年に建国したばかりの中国「晋」に朝貢したことが魏志倭人伝に記されている。

前期の古墳が集中
柿畑と水田の間の盛り上がったところは、至るところ古墳。それも前期古墳が集中し、邪馬台国時代の墳墓群なのである。
中山大塚古墳(全長130)は3世紀後半とも見られる特殊器台型の埴輪が採取され、これも邪馬台国時代のものと注目されている。
下池山古墳(全長120m)は、埋葬施設があり、石槨内には、コウヤマキ製の割竹型木管が残っていた。副葬品はほとんど盗掘を受けていたが鉄刀、鉄槍、碧玉製石剣、管玉、ガラス小玉などがわずかに残されていた。
注目を集めたのは、直径37.6cm、重さ4.88kgの大型の内行花文鏡だった。この種の鏡は北九州の伊都国王の王墓として知られる「平原王墓」のものが有名だが、100年ほどの時を経て北九州から大和へと渡ってきたのだ。
第26代継体天皇が亡くなったのは、531年と534年説がある。いずれにしても200年以上の開きがある。考古学者の多くは、衾田陵のすぐ北にある西山塚古墳(全長115m)を手白香皇女陵と指摘する。全長100mを超える6世紀の古墳は、この西山塚だけで、継体天皇の皇后のためにあえて造ったと考える人も多い。

東大寺山古墳では後漢の銘刀が出土
名阪国道のすぐ北にある東大寺山古墳(とうだいじやまこふん=全長130m)は、天理市櫟本町にある前方後円墳。
古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃の築造とされ、副葬品の中には24文字を金象嵌で表し、西暦184年-188年にあたる「中平」年間の紀年銘を持つ鉄刀(国宝)がある。 中平とは後漢の霊帝の年号で、184~189年を指し、「倭国乱」(『魏志』倭人伝)が終結した時期である。
このあたりは和邇(わに)氏族の拠点であり、一族が築造したと推定される古墳が平野部との比高差約70メートルの丘陵上に点在している。この鉄刀がいつどこで入手され、本古墳に副葬されたのかは分からない。しかし、この地の人たちが中国の後漢と通交があったのではなかろうかと考えることができる。
台与が眠るか「西殿塚古墳」(写真/天理市教育委員会)