邪馬台国

史書に書かれた邪馬台国

航空写真で西から撮影した纒向遺跡。正面は三輪山( 写真/桜井市教育委員会 )

邪馬台国の名が初めて登場したのは、3世紀末に西晋の陳寿(ちんじゅ)が編纂した中国の史書「三国志」。この中にある「魏書 鳥桓鮮卑東夷伝(ぎしょ うがんせんぴとういでん)倭人条」で取り上げられ、これがいわゆる「魏志倭人伝」と呼ばれている。
720年に成立したわが国最初の歴史書「日本書紀」に、景初3年(239)に倭の女王が使いを送ったことが「魏志倭人伝」から引用される形で書かれているが、この中に卑弥呼や邪馬台国の名は登場しない。
中国では3世紀に入ると、曹操や諸葛孔明らの英雄たちが活躍する三国時代に入る。
倭人伝には、当時の日本(倭国)の様子などが1983文字で書かれている。

身分制度と納税が確立
温暖にして、冬も夏も生野菜を食べる。風俗はみだらではなく、稲と麻を植え、絹糸や綿糸をつくる。貫頭衣。会合は同じ所に座し、父子、男女の区別がない。人は酒を楽しむ。皆長生きで百~80、90歳まで生きる。一夫多妻で、婦人は淫らでもなく嫉妬もしない。稲と麻を植え、蚕に桑を与えて糸を紡ぎ、絹糸や綿糸などを作る。牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)などもいない。倭国では真珠や青玉も採れる。
すでに奴卑、下戸、大人という身分制度があり、「法を犯すと、軽い者はその妻子を没収し」など守るべき法が敷かれていた。
また、租賦を収める倉庫があり、国々には市がたった。貿易を行い、一大率と呼ばれる監督役が配置されていた。

3回にわたって使節を派遣
倭国乱があり「70~80年間国中が乱れていたが、一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という。鬼道につかえ衆を惑わせる。年はすでに長大で夫婿はいない」。 卑弥呼のまわりには、千人の巫女(侍女)がはべり、男子は弟1人だけが出入りを許され、給仕したり命令を伝えたりしている。
宮殿には楼閣・城柵・倉が作られ、兵が常に警護している。
景初3年(239)6月大夫・難升米(なしめ)、次使・都市牛利(としごり)を帯方郡に派遣。その年の12月には洛陽に入る。皇帝は大歓待をし「親魏倭王」の金印を紫綬。そのほか毛織物、絹織物、真珠、五尺刀二口、銅鏡百枚など贈る。破格の待遇である。
正始4年(243)2回目の朝貢。大夫・伊声耆(いせき)掖邪狗(やくく)ら8人を遣わす。生口、倭錦など献上した。 
正始8年(247)、3回目の使者を帯方郡へ送る。狗奴国との戦争状態を告げる。 魏は国境警備隊長の張政を遣わし、黄幢(錦の御旗)を難升米に手渡す。「魏が邪馬台国を支援している」という回状をつくらせて、触れ廻させた。

卑弥呼の死と台与の登場
「卑弥呼以って死す(248年)。大いに冢(ちょう)を作ること径百余歩(約150m)。葬に徇ずる者・奴婢百余人なり」。
その後、男王を立てたが国中が承服せず。混乱で千人余りが亡くなる。 卑弥呼の宗女・台与(とよ・13歳)をたてて、国中がようやくおさまる。この時、張政は檄をもって台与を励ます。
泰始2年(266)台与は中国を統一した「西晋」に、倭の率善中郎将の掖邪狗(やくく)等20名を遣わし、男女生口30名、白珠5千、大玉の青勾玉、綿や絹織物を貢ぐ。
このとき張政は一緒に帰国(倭国に20年間滞在)。卑弥呼の死から18年後のことである。 

魏志倭人伝の訓み下し全文はこちらから
(桜井市纒向学研究センター東京フォーラム資料より=PDF)