邪馬台国

纒向の終焉とヤマト政権

崇神天皇を祀る行灯山古墳(写真/天理市教育委員会)

国のまほろば
「やまとは国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとしうるはし」

古事記に書かれた12代景行天皇の皇子・日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰路、ふるさとを目前に詠んだ辞世の句である。
九州の熊襲征伐を終えてまもなく、今度は遠く関東から東北までの遠征を命じられる。
「草薙の剣伝説」をはじめ、数々の困難に直面しながらも神がかり的に乗り越える。
そして、帰国目前に伊吹山の神の毒気に襲われて、伊勢の能褒野(のぼの)で命つきる。
卑弥呼の時代からの東国・狗奴国との戦に明け暮れた新生倭国。
九州をはじめ西日本をその勢力圏においたが、ヤマト王権の時代になっても関東・東北をいかに組み込んでいくのかが、国づくりの最大課題であった。

纒向の主人公は誰だった
3世紀の初めに突然出現した新しい首都・纒向。その時代や規模が明らかになるにつれて、「卑弥呼の王宮」であったとする見方は強い。
そうであれば、邪馬台国はそのままヤマト王権に引き継がれたのであろうか?
古事記・日本書紀には、第10代崇神天皇が「瑞籬宮(みずがきのみや)」、11代垂仁天皇が「珠城宮(たまきのみや)」そして景行天皇が「日代宮(ひしろのみや)」と3代の天皇が纒向に宮を設けたことが記されている。
邪馬台国がヤマト政権にそのまま引き継がれたのだとしたら、なぜ日本の歴史書には卑弥呼の名前が載らなかったのか?大きな謎である。

150年で幕を閉じる「纒向」
纒向は、箸墓古墳ができてから、3世紀後半に最盛期を迎える。それから4世紀中頃に、急速に衰退する。
それまで百年以上にわたって奈良盆地東南部に築造されてきた大王墓が、次第に奈良盆地北部の佐紀や大阪平野にその立地を移していく。
大型建物群は柱を抜き取られた。これ以降、飛鳥までこのような大型建物は日本全国では見当たらない。
なぜ、纒向は終焉を迎えたのか?

「纒向が成立した当初は、ヤマトはそれほど強い力が無く、吉備など他勢力との合議制で運営されてきた。それでも50年、60年と政権の中枢として運営していく中で、力をつけてきた(箸墓古墳の築造がそのタイミングかも知れない)。そうなると色々な地域の人たちが集まって王権を支えるという必要がなくなってくる」

このように推察する研究者もいる。
現在までに行われた纒向遺跡の発掘調査は、エリア全体の5%にも満たない。
「日本の国のはじまり」。遠く源流に想いを馳せながら、今後の研究成果を心待ちにしたい。